「小さな政府」や規制緩和、市場の自由化は貨幣賃金の不平等を傾向的に推進する。
自民党が進めてきた「新自由主義的経済政策」こそが「失われた25年」の本質であり、グローバリズムがさらに金融市場と生産市場との乖離を拡大させ、国民は益々貨幣賃金の安定を得られなくなっている。
「官から民へ」の構造改革は、確かに一部の大企業に資産を積み上げたが、それが国内生産に寄与することはなかった。
電機や日用品などのコモディテイ化した商品の生産は近隣国などの海外に移転されたが、それは必然のことだが、生産移転先の自国内生産に転化され、その元生産企業は徐々に市場で打ち負かされる。
国の経済財政政策において財政政策ばかり喧伝されるが、国家の未来計画となる「生産計画」がない。
簡単に言うと、「日本人は貧しくなっている」、特に消費需要が高い50歳代以下に顕著である、このナショナルエコノミーの貧さを解決しなければならない、日本は「失われた25年」が「30年」になるだけである、やがて社会保障も傾いていく偏った社会を迎えることになる。
世界がグローバル化するほどに、ナショナルエコノミーを重視しなければならない。グローバルプレイヤーは巨額の富を生産しているが、必ずしも国家であるナショナルエコノミーに依存しない。
安倍首相はアベノミクスでトリクルダウンを提唱したが、経済は格差を広げ、国は財政赤字を積み上げて終わった。消費税の増収を胸を張ってもらっているのは困る、それはなけなしの懐から国民が負担しているものだ。
戦後、日本は焼け野原だった。しかし、そこからは官民一体で5年で復興し、それ以降、経済発展を遂げた。つまり、官民一体であった。それを面白く思わないハゲタカが「改革」を言いだし、とりわけ政治勢力が弱かった政治家がそれを推し進めた結果こそが日本の結末である。
語られたスローガンは「官から民へ」であった。
それは、例えば、資源であったり、エネルギーであったり、食糧であったり、特定の分野ではより専門的かつ財源の長期的担保を有する「国家」がやらなければならない分野がある。
ケインズは、このナショナルエコノミーの重要性を貨幣賃金と併せて論じ、グローバルエコノミーに警鐘を鳴らしている。
グルーバルエコノミーは世界の生産を押し上げているが、そこは戦争や国家の競争が絶えない不安定な力が支配する市場である。