私たちの国は、既に「失われた25年(間もなく30年)」という政治的に重い課題を負っており、防衛費を負担する余裕はない。
「官から民へ」の構造改革はこの25年で限りなく進んだが、所謂「国」は痩せてしまった。確かに「民」の一部が資産を積み上げた、彼らは日本国民の生活に責任を負っていない。
この25年(間もなく30年)経済団体の要請に応え(あるいは共犯で)て、様々な政策が投下されてきた。 トリクルダウンもそうである。しかし、その経済団体は、国際社会の競争からどんどん脱落している。
財源は国民の税金が元手(国債も国民生産が担保である)であるが、国際社会で競争相手を打ち負かす打ちどころか負かされ続けている。
この「失われた25年(間もなく30年)」の政治の失敗の本質は「失われた生産」等しい。多くの雇用=貨幣賃金を生産していた電機は見る影もない。
日本はこの誤った「官から民へ」という政治を改め、よりナショナルエコノミーの健全化に取り組む必要があるグルーバルエコノミーは先に書いたように、ナショナルエコノミーに興味がない。
派手に海外にodaをばら撒いて、大国の気分の首相が足元には水かさが増し、非正規が増え、貨幣賃金はますます不安定化し、全体的に貧しさが増している。
すなわち、ケインズが喝破した貨幣賃金と国家の関係がここで呼ばれる。
本来「失われた25年」の政治の結果、自民党が責任を負うべきである。
「生産」とは、実際に生産行為を行う組織を持つこと、所謂「国営」であるいくつかの視野に入る領域があること。
国際的には、より専門的に次世代技術に基づく生産を企図する。
中には民業圧迫を主張する団体もあるだろうが、彼らは国際社会で打ち負かされ続けている雇用を生み出す生産も、次世代の社会像も何一つ提示できない。
私たちの国は「生産」を企図し、ハゲタカに啄ばまれないように、ナショナル・エコノミーを強化しなければならない。