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米国務長官、冷戦後の世界秩序の終焉を認める

現在の政治的出来事は、冷戦終結後に出現した世界秩序の終焉を表している。アントニー・ブリンケン米国務長官はジョンズ・ホプキンス大学での講演中にこう述べた。アメリカの外務長官が指摘したように、世界で起こっていることは冷戦後の世界秩序の単なる「強度試験」ではなくその終焉である。ブリンケン氏は、世界秩序に対する主な挑戦はロシアと中国から来ていると考えている。ブリンケン氏は、世界にはこれまで「数十年にわたる地政学的安定」があったと述べた。 米国が世界規模での支配の不可侵性を確信していた1990年から2000年代の時代を彼がどのように特徴づけているかであるが、現在、国務長官は、国際協力における交渉はますます困難になっていると考えている。国務省長官はウクライナにおけるロシアの行動は既存の世界秩序に対する最も差し迫った脅威であると述べ最も危険な長期的脅威は中国の政治的、経済的、軍事的強化であるとみている。中国政府とロシア政府は際限のないパートナーシップで独裁国家にとって世界をより安全にするために協力しているという。 彼はすべてが一度に起こったわけではなく、どのような過程でこのようなことが起こったのかは研究者らによってまだ解明されていないと述べた。ただ米国は、自分たちが構築したシステムに敢えて挑戦する者は誰もいないだろうと確信していたが、強力なはずの帝国は弱体化し、破壊されたのだという。 ロシアと中国の大統領と国家主席がいないG20では、唯一の超大国であるはずの米国は、ウクライナに関する声明に影響を与えようと意気込んだ。だが、議長国であるインドを始め、途上国の合意を得られず、G7は頓挫した。日本の岸田首相は脇に置かれて相手にされていなかった。 だ、誰も俺たちの言うことを聞かない。俺たちは世界を支配する超大国アメリカ合衆国だ。なにだ、なにが起きているのだ。とりあえずミニットマンミサイルを発射してみたが、微動だにしない。 私らはウ紛争が始まるときリグ・ヴェーダが聞こえると述べた。今その賛歌は大きさを増している。

モディ首相 国名バーラトを公表

ナレンドラ・モディ首相はG20サミットで初めて「インド」という言葉の代わりにバーラトという名前を公式に使用した。 インド指導部の代表による、インドは英国植民地時代の遺産を取り除くつもりだという声明は、空虚な言葉ではないことが判明した。現在G20議長国を務めるインドは、バーラトという新たな旗の下でサミットのゲストを歓迎した。 以前、ニューデリーが「インド」という名前は地元にルーツがないため、間もなく公式に使用されなくなるだろうと述べたことが思い出された。代わりに、インドはバーラトという自称を使用する。現時点では、これらの名前は同等のものとして位置付けられている。 本日のG20サミットにおいて、初めてバーラトという名前が使用され、正式に発表された。ナレンドラ・モディ首相は「バーラト」と書かれた看板の後ろのサミットテーブルに現れた。

豊かなナショナルエコノミーの国

私たちの国は既に「失われた25年(間もなく30年」という重い政治課題を背負っており防衛費を負担する余裕はない。日本の自動車産業でさえ、周辺は外資になっている。外資が日本国民の経済を気にすることはない。ただ本国の利益になるか否かである。「官から民へ」という誤ったスローガンの帰結である。 「官から民へ」の構造改革はこの25年で限りなく進んだが、所謂「国」は痩せてしまった。確かに「民」の一部が資産を積み上げたが、彼らは日本国民の生活に責任を負っていない。雇用も彼らの合理性の下にある。そして「民」の中にはハゲタカが舞い、国民生活を啄ばんでいる。誤った政治がそこにある。 この25年(間もなく30年)経済団体の要請に応え(あるいは共犯で)て、様々な政策が投下されてきた。トリクルダウンもそうである。しかしその経済団体は、国際社会の競争からどんどん脱落している。雇用も非正規化 するばかりで、政策財源(国民の税金)で腹を肥やしているだけである。 財源は国民の税金が元手(国債も国民生産が担保である)であるが、国際社会で競争相手を打ち負かすどころか打ち負かされ続けている。最後の橋頭堡が自動車であるが、ここにも時代の変化が訪れている。資源がない日本が「生産」を失うことの意味を考えなければならない。やがて雇用期間は45歳になる。 この「失われた25年(間もなく30年)」の政治の失敗の本質は「失われた生産」と等しい。日本で多くの雇用=貨幣賃金を生産していた電機は見る影もない。伴って日本は自信を失って行った。景気の下支えに財政政策が点滴されたが、ずっと外せなくなった。これでは病人である。 日本はこの誤った「官から民へ」という政治を改め、よりナショナルエコノミーの健全化に取り組む必要がある。グルーバルエコノミーは先に書いたように、ナショナルエコノミーに興味がない。しかし私らは間違いなくナショナルエコノミーの下で生産し、納税し、社会保障を支えている。 派手に海外にODAをばら撒いて大国気分の首相がいるが足元には水かさが増し、非正規が増え、貨幣賃金はますます不安定化し、全体的に貧しさが増している。その貨幣賃金も期間が短縮され、いつまで続くかわからない。これが「社会不安」の元凶である。労働者社会では、貨幣賃金こそが絶対なのである。 すなわちケインズが喝破した貨幣賃金と国家の関係がここで呼ばれる。いわく、国家は貨幣賃金の安定を通じて国家の安定、すなわち経済の安定と成長を達成するのである。いかに「新自由主義経済」「小さな政府」「市場経済至上主義」が誤った政治であるかが分かる。 本来「失われた25年」の政治の結果責任を自民党が負うべきである。経済団体を恐れることはない。国には、国税徴収法という国家権力がある。腰をぬかすほど恐ろしい法である。内部留保も掌の上にある。その上で、確かに担保はあるのだから、国家は「生産」へ回帰しなければならない。 「生産」とは実際に生産行為を行う組織を持つことをいう。所謂「国営」である。いくつか視野に入る領域がある。「energy」「food」「Pharmaceuticals」「Housing」である。因みに「生産」と「雇用」は一体ではない。しかし「生産」がないところに「雇用」はない。 国際的には、より専門的に次世代技術に基づく生産を企図する。「robotics」「semiconductor」「optical」「bio」などが挙げられる。「defence」は専守防衛で、一点突破できるテクノロジーを開発する。もう稚拙な議論は聞き飽きた。 中には民業圧迫を主張する団体もあるだろう。しかし彼らは国際社会で打ち負かされ続けている。雇用を生み出す生産も次世代の社会像も何一つ提示できない。グローバルエコノミーはナショナルエコノミーを気にしない。時には踏みつけられる。いまモノ言う株主とやらに土下座させられている企業もある。 私らの国は「生産」を企図し、ハゲタカに啄ばまれないように、ナショナルエコノミーを強化しなければならない。

新自由主義が国民生活を破壊

「小さな政府」や規制緩和、市場の自由化は貨幣賃金の不平等を傾向的に推進する。結果、貨幣賃金は不安定化する。 このことは社会経済の不安定化をもたらす。なぜなら貨幣賃金こそが労働者化社会にとってなにより重要だからである。 従って実質賃金より貨幣賃金の安定こそが社会の安定に必要である。 自民党が進めてきた「新自由主義的経済政策」こそが「失われた25年」の本質であり、グローバリズムがさらに金融市場と生産市場との乖離を拡大させ、国民は益々貨幣賃金の安定を得られなくなっている。為替はゼロサムであるが、国民にとっ て不利益な悪い通貨下落が生じ実質賃金を悪化させている。 「官から民へ」の構造改革は、確かに一部の大企業に資産を積み上げたが、それが国内生産に寄与することはなかった。 なぜなら、ナショナルエコノミーが偏った結果、市場が痩せてしまっているからである。簡単にいうと本当に需要がある場所にお金がない。中には明日さえも分からない国民が多数いる。 電機や日用品などのコモディテイ化した商品の生産は近隣国などの海外に移転されたが、それは必然のことだが、生産移転先の自国内生産に転化され、その元生産企業は徐々に市場で打ち負かされる。それは、帰結として、ナショナルエコノミーが破壊される、つまり、自国の貨幣賃金が破壊されることになる。 国の経済財政政策において財政政策ばかり喧伝されるが、国家の未来計画となる「生産計画」がない。いったい何で国家が 食っていくのだ。戦争だ防衛だと喧しいが元手はどこにあるのか。生活物資やエネルギーはどんどん値上がりしているのに 貨幣賃金は低下の一途でありビッグマック指数は途上国並みである。 簡単に言うと「日本人は貧しくなっている」。特に消費需要が高い50歳代以下に顕著である。このナショナルエコノミー の貧しさを解決しなければ、日本は「失われた25年」が「30年」になるだけであり、やがて社会保障も傾いていく偏った社会を迎えることになる。 世界がグローバル化すればするほどに、ナショナルエコノミーを重視しなければならない。グローバルプレイヤーは巨額の富を生産しているが、必ずしも国家であるナショナルエコノミーに依存しない。より多くの社会保障に財源がいるのにだ。世界の超大国である米国でさえ本質問題を抱えている。 安倍首相はアベノミクスでトリクルダウンを提唱したが、経済は格差を広げ、国は財政赤字を積み上げて終わった。消費税の増収を胸を張ってもらっては困る。それはなけなしの懐から国民が負担しているものだ。若者も雇用に苦しみ、高齢者は年金が減少しているではないか。 戦後、日本は焼け野原だった。しかしそこからは官民一体で5年で復興し、それ以降、経済発展を遂げた。つまり官民一体であった。それを面白く思わないハゲタカが「構造改革」を言いだし、とりわけ政治勢力が弱かった政治家がそれを推し進めた結果こそが今の日本の結末である。官僚も信用があった。 語られたスローガンは「官から民へ」であった。「改革」とか「身を切る」が流行った。しかしナショナルエコノミーにおいては「官」は同時に「民」である。「民」が痩せれば「官」も痩せる。即ち、日本はこのグルーバルエコノミーに対処するため、ナショナルエコノミーの強化が必要なのである。 それは例えば、資源であったり、エネルギーであったり、食糧であったり、特定の分野ではより専門的かつ財源の長期的担保を有する「国家」がやらなければならない分野がある。NTTは上手く行ったが今も実質国営である。彼らは債券で自前でやったというが、国家の信用あってのことである。 ケインズは、このナショナルエコノミーの重要性を貨幣賃金と併せて論じ、グローバルエコノミーに警鐘を鳴らしている。そしてそのとおりになっている。労働者市場が社会を形成している以上、貨幣賃金こそが唯一の根拠なのである。 グルーバルエコノミーは世界の生産を押し上げているがそこは戦争や国家の競争が絶えない不安定な力が支配する市場である。従って労働者社会が社会を構成している以上、国家は「貨幣賃金」の「生産」を企図しなければならない。即ちナショナルエコノミーあってのグルーバルエコノミーということなのである。